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鮮やかないろいろ エンタメ感想が主

お離婚の話

友人が離婚した。

お離婚、とこちらが冗談粧して言うと力なく笑った彼と、共通の友人でもある旦那と3人でグダグダと飲みに行ったのは春先のことである。彼は言った。別に大きな理由があったわけではない、と。海外出張が多い彼と子を望む年上の彼女とは色々と認識の相違があったようで、彼女の手記を真夜中に見つけてこっそりと読んでから「ああ、これはもうだめだ」と思ったらしい。何が書き付けてあったのか、と軽快に開けたワインボトル2本目に口をつけながら急かすと、第三者への恋心、と彼は呟いた。世間体を考えた時に誰にも言えない、恋心。彼は敢えてそれを不貞と言わなかった。責めるつもりもないらしく、何が正しいのかもわからない、と言った。彼女を愛しているからこそ、彼女の恋心を無視することができないのだと。わたしはふと彼の結婚式を思い出していた。病める時なるも健やかなる時も、彼女を愛する、と神前で誓っていて、別にキリスト教じゃないのに神父さんがカタコトの日本語で言っていた。彼は婚姻に忠実に、まだ年上の彼女を愛していた。

それから半年経った冬の入り口のある日、彼と中華ランチを食べている時に彼女ができたと告白された。よかったじゃん、というと彼は目尻を下げて、でも二週間で別れたんだよね、と言った。まぁ、神に誓ったわけじゃなかったからいいんじゃない、とわたしがいうと、よくわからない、という顔をして彼は麻婆麺を啜っていた。わたしは棒棒鶏を口に含みながら、脳内で2年の結婚生活と二週間の恋人ごっこを天秤にかけてみたりなどした。

魚の小骨が刺さっている話


去年の秋、リホは誰にも何も言わず、結婚した。

インスタグラムのストーリーズにはハワイ挙式の様子がアップされていて、リホの整った容姿に完璧なドレス、完璧なロケーション、そして傍にいたのは背が高くて爽やかな青年だった。ゼクシィに載っているような美男美女の華やかな式には、誰1人私たち友人は招かれなかった。

 


地方の私立大学のゼミで知り合ったのがリホだった。学科の殆どが女の子の中でも一際目立っていたのがリホは、派手ではないが、色白で整った目鼻立ちと、上品な服装を身にまとっていた。一度、ゼミのメンバーの似顔絵を書いてほしいと言われたとき、リホは美人すぎるから特徴がないんだよね、とぼんやり思ったことを今でも覚えている。成績はトップクラスで、客室乗務員を目指している、と言っていた。控えめで、誰にでも優しくて、自分の容姿に驕ることもないリホのことをみんな好きだったし、リホは間違いなくみんなのアイドルだった。

そんなリホと一番仲良くしていたのは同じゼミのショーコだった。すらっと背が高くてバスケをしていて、リーダーシップがある。ショートカットがよく似合う美人で、授業に出ないこともしばしばだが、さっぱりとした性格と統率力で周りからは好かれていた。ショーコとはよく飲んだ。それこそ大学生御用達の290円均一の居酒屋に何回も足を運んだし、終電までカラオケしたり騒いだり、所謂大学生らしい大学生として過ごすことが多かった。

リホとショーコ。真逆のような2人に見えて、いつも一緒に過ごしていた。ショーコが予習を忘れた日にはリホがノートを見せてあげていたし、たまに寝坊して学校に来るショーコの朝ごはんのためにお弁当を作っていた。リホはいいお嫁さんになるねえ、といいながら、ショーコはよくリホの頭を撫でていた。

就職も決まり、卒業も近づいたある冬の日、夜行バスに乗ってディズニーランドでも行こうよ、とショーコは言った。リホとショーコはディズニーが好きで、よく2人で遊びに行っている。じゃあリホも誘って、3人で行こうよ、ガイドしてよ、とわたしが提案すると、いいよ、とショーコは快諾した。

よく考えてみると、リホとショーコとバラバラに遊んだり、授業に出席することはあっても、3人一緒に過ごすのは初めてだな、とぼんやり思った。初日にランドに行って、二日目は確かシーに行くことになっていた。わたしたちみたいな学生が掃いて捨てるほど集まる時期だったので、宿泊はツインしか空いてけどどうする?と言うと、あ、わたしショーコと同じベッドで寝るから大丈夫だよ、とリホは言った。狭くない?わたしだけ得しちゃっていいの?と何回も聞いたけれど、結局ショーコとリホはわたしにベッドを譲ってくれた。2人のマニアックな解説で遊ぶディズニーランドはとても楽しかった。お土産物屋さんで、見て、これリホに似合いそう、とショーコが見せてくれたストラップは、淡いピンクのパステルカラーのプリンセスモチーフのもので、たしかにリホにぴったりだ、と思って笑った。リホとショーコはカップルみたいだねえ、お互いのことを一番よく分かってるって感じ。わたしの台詞にショーコは笑った。でもね、ここだけの話、リホって男の人と付き合ったことないんだよ、とショーコは付け足した。学科の数少ない男子、みんなリホのこと好きなのにね、とわたしは笑う。リホって理想が高いのかな、と、真剣な眼差しでお土産をえらぶリホの整った横顔をよく覚えている。

 


春になり、リホは念願の客室乗務員に、ショーコは日本語教師に、そしてわたしは都内の会社勤めになった。社会人になって2,3年のうち、リホとは都内で時々ご飯に行ったり、共通の友人の結婚式で顔を合わせたりしていた。ショーコ、東南アジアに赴任になったけど、ちゃんと生きてるのかな、なんて軽口を叩きながら。

そのうちリホが国際線に乗るようになる頃には、忙しさから会う機会がどんどん減っていった。ある土曜日の朝、珍しくリホから着信があったので出ると、リホは唐突に質問をぶつけてきた。ねえ、子どもって欲しいって思う?と。そうだね、いればいいけど今すぐはいらないかな、ほら、将来のこととか親のことを考えると、やっぱいたほうがいいよね、なんて曖昧な返事をすると、スマートフォンの向こうでリホが笑った。そうだよね、最近甥っ子が生まれてさ、親がメロメロなんだよね。そういえばインスタに可愛い子どもとのツーショットを載せていたっけ。そういえばさ、と他愛のない話をして通話を切った。

 


ショーコが一時帰国するからみんなで集まろう、となったのは次の年の夏頃で、せっかくだしゼミの教授も呼ぼうよ、と声をかけた。ほとんどが女の子で構成されていたゼミだったけど、教授は40代の男性で、やれ付き合っただの別れただの、年頃の女の子たちの恋愛相談にも乗ってくれるいい先生だった。もちろんリホにも声をかけたけれど、仕事の都合で、と言って断られた。
日本の居酒屋、やっぱ最高だわ、と、ショーコは海外の色んな土産話をした。みんながある程度アルコールが回った頃、教授はショーコの目を真っ直ぐに見て、言った。リホのことは、もういいのか。わたしは言葉の意味が全くわからなくて、でも茶化すような勇気もなくて、ただ黙って座っていた。先生はなんでもお見通しですね、とショーコは微笑んだ。少し日に焼けた高い鼻に皺が寄る。リホは生真面目で、控えめで、自分とは真逆のタイプで、絶対に仲良くなれないと思ったんですけど、誰よりもわたしそのものに寄り添ってくれるのは彼女だったんですよね、とショーコの独白が続いた。先生、リホが幸せなら、それでいいんですよ。ショーコは少し泣いていた。わたしはただ黙って、ジョッキグラスの汗が流れる様を見つめていた。

 


卒業してからショーコとリホの間に何があったのか、わたしは何も知らない。なんで言ってくれなかったの、とも言えなかったし、結局一時帰国したショーコとはそれっきりで、リホとも随分会っていない。繋がっているSNSで近況を知るだけの関係だけれど、ショーコはどうやら新しいパートナーと楽しく暮らしているみたいだし、リホはハワイでひっそりと挙式していた。次の年のお正月には、前撮りしたのか、淡いピンクのパステルカラーのドレスを着たリホが映った年賀状が送られてきて、わたしは無知で何も知らず、簡単に人を傷つけていた若い冬のことをすこしだけ思い出すのだった。

日常を蝕まれる話

生協の定期便で頼んでいるヨーグルトドリンクが届かなかった。

ただそれだけのことである。文にするとたった一行だが、なんか疲れたな、と思うトリガーには充分だった。ちなみにそのヨーグルトドリンクは鉄分補給のために妊娠中からかかさず飲んでいて、いわゆるモーニングルーティン的に自分の中で組み込まれているシロモノである。

頭をよぎったのは、明日の朝どうしようかな(まぁなくても我慢はできるのだけれども)ということと、近くのスーパーに買いに行くのめんどうだなぁ、ということで、乳児のいる今、できるだけ外出回数を減らしたりしているのになぁ、というぼやきである。

スーパーではビニールの壁の向こうに、マスクとビニール手袋をはめた店員さんがいて、そういう姿ももう1週間くらいみているからかなり日常の一コマになりつつあるんだけど、いやいやこれを日常として受け入れたら完璧にダメだよな、と脳のどこかで誰かが警鐘を鳴らしている。そして、そういう完全防備と対策をしている人の、仕事を増やしてしまって申し訳ないなぁ、と思いながらカゴを出して、なんとか食料を購入したりする。買えたり買えなかったりする食材や調味料もあったりして、棚がぽっかりと空いている様を見ていると、非日常感と虚無感の折り混ざった気持ちになったりする。

そういえばホットケーキミックスが欠品してる、ってネットで見たなぁ、今は仕方ないよね、と思って気持ちに折り合いをつけたりしているのだけれど、なぜこちらが折り合いをつけなければいけないのか。憤りを感じるレベルが低すぎるでしょ、みんなもっと頑張っているわよ、と言われるとそれまでなのだけれど、なんというか育休中の、社会と半断絶されてるような三十路でもこれなのだ。今、社会活動に貢献している数多の人はもっと憤りを、もしかしたら諦めを腹の底に飼い殺しているのかもしれない。じゃあ誰が一番しんどくてつらいのか、というグラデーションをつける行為は意味がないし、さらさらする気もないのだけれど。

なんというか、完璧に非日常を通り越して、日常を蝕もうとしている目に見えない敵と、それに伴って引っ剥がされて出てきた見ないでよかった悪意たちに、わたしはほとほと疲れてきたのかもしれない。疲れたら、疲れた〜といって大の字になれる、そんな社会に早くなって欲しいものだ。

舞台「天保十二年のシェイクスピア」感想 〜私は闇鍋ババアになりたい

◆noteをやっていた頃に書いた記事を転記しているので構成がめちゃくちゃです。

 

はじめに

もし高橋一生が歌って踊るミュージカルするなら見にいってあげたい(笑)とどこから目線やねんみたいなつぶやきをしたのが奇しくも2019年2月25日のこと、そこから約1年後の2020年2月27日、日生劇場で無事観劇することができました。尚、舞台を観劇するのは初めてのことで、さらにいうと自由に休みを取れるような身分じゃない状況下だったので、なんというか本当に巡り合わせだなぁと思いました。素敵な機会をくださったつぶ餡さんありがとうございます!

 

・生きるべきか、死ぬべきかという二項対立
シェイクスピアには元より様々な二項対立が描かれています。単純なところで言うと、性差、貧富差、身分差、家柄等々…一番有名な二項対立を表しているテクストといえば、「To be, or not to be, that is the question / 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という一文でしょうか。二項対立は、それ自体がわかりやすく、論え始めると「ソウダネ!」みたいなドツボにはまる解釈しかできないことが多いのですが、敢えて「天保十二年のシェイクスピア」ではこの二項対立、もっというなれば「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」というテクストが核になっているように感じました。単純な対立構造でいうと、蝮一家と花平一家、お文とお里なんかは綺麗な二項対立ですし、(これはキャピュレットとモンタギューを下地にしてることは明らかなのですが)三世次が登場するシーンの歌も様々な二項対立、きれいはきたない…等々歌い上げていますよね。でもこの舞台の主人公(と、言い切ってしまっていいのだろうか?)の三世次でさえ二項対立には王次がいて、お互いが互換性が高い存在として描かれていたので、三世次の役割ってなんなんだろうな、と思っていたんです。特に序盤〜幕間までの三世次は、アリスでいうとチェシャ猫のような、夏の夜の夢でいうとパックのようなトリックスター的な存在だったので、このまま終焉を迎えるのかな〜と思っていた。ら、そんなことなく、ここから三世次の物語に形を変えていく様が凄かったです。

 

・三世次が持ち得なかった「種」

三世次がどんな人物かというと、

無宿の渡世人。顔に大きな火傷があり片足が不自由、おまけに瘻という凄い人物だが邪知姦計に長けており、下総を牛耳る二組のヤクザの抗争を利用して出世しようと企む。
様々なシェイクスピア作品のシークエンスを一人で引き受ける忙しい人物。
(Wikipediaよりお借りしました)


というキャラクターなんですね。(ごめん、忙しい人物という一文にちょっと笑った)
足が不自由=身体機能の欠乏、特に性的に不能というメタファーが織り込まれることが多いので、おそらく三世次もそうなのではないかと推測されます。冒頭に遊女と性交するシーンでも「イっては」ないんですよね多分。あとお光に夜這いをかけるシーンでは最終的には屍姦だったし。わたしは、子孫を残す種を持たざる人物と読みました。剣が下手(剣は男性性のメタファー)でことば使いと自分の身分を言い切っているところもその一環かと…。そんな三世次が、「二つで一つの女」=二項対立を為し得ない唯一の人物、お幸/お光が引き金となり最終的に死に至る。最後の台詞では「馬をよこせ、できれば羽の生えた馬だ」と言っていましたが、馬=身体機能を為さないと乗りこなせない、また男性性や種のメタファーとして描かれるものなので、彼が欲していたものはそこにあったのかなぁと…。(そういえばお里とお文も馬を乗り換えるのさ!と言っていましたね。) 鏡に映された自分、二項対立ではなく二つで一つであることを見つめた先にあったのは死。最終的には対立要素だと思っていた百姓=種蒔く人、自分の元来持つべきだった本質に殺される最後、壮絶でした。

 

・ザ ・ニッポンのシェイクスピア

演出の感想で言うと、日本古来の(?)文学を感じられるところがちょこちょこあってオォ〜と思いました。羅生門、桜の木の満開の下、曽根崎心中(というか人形浄瑠璃ですね)など、詳しい人が見たらもっと色々あると思うのですが、シェイクスピアの作品を全部詰め込んだとはいえ、私たちの文化的下地にはどうしても日本文学があるんだなぁと思いました。音楽はブルース、ボサノバ、ソウルと幅広く、(もちろん他にもたくさんあります!)文化の融合という陳腐なことばでしか褒めることができません。ちなみに最後のシーンはスリラーですよね。笑

 

さいごに
・カーテンコールが終わった後、高橋一生さんから(ここではちゃんと敬称をつけますね)説明があり、なんとこの日の公演が実質の千秋楽、予定されていた今後の公演は中止とのことでした。わたしは本当にたまたま、巡り合わせで観劇させてもらった身なのですが、千秋楽を楽しみにしていた人、大阪公演までネタバレなしに…と心待ちにしていた人、本当にたくさんいたと思います。カーテンコールの後の、無念、という気持ちはもちろんそうなのですが、それ以上に印象に残ったのは高橋一生さんの、娯楽に対する考え方でした。 

 

 

今、未曾有の(という表現が適切かはわかりません)感染症予防のために、いろんなことが制限される中、娯楽というものは真っ先に控えるようにという風潮があって、でもわたしたちはきっと、心を豊かにせずに生きる方法なんて忘れてしまっているんですよね。日常生活はもちろんですが、それ以上に今、自分の手の届く範疇にある「心を豊かにしてくれること」をもっと大切にしないといけないな、と思いました。それに気づかせてくれた三世次の亡霊(さすがことばつかいだ…)はじめ、すべての演者さん、スタッフさん、ありがとうございました。

 

…というめちゃくそ真面目な終わりになっちゃったのですが、わたしは早く闇鍋ババアになって壺にカラスを投げ入れる役をやりたいです。

はじめに

はてなブログにお引越ししました!

 

というのもnoteの仕組みに合わなかったということもあり、(そして今後金銭が発生するようなことはないだろうと見越し、)尚且つTwitterのフォロワーさんたちがはてなブログが多かったということもあり、お引越ししてみました。

 

過去書いていた記事も移動させました。とても…めんどくさかった…。時々思い出したかのように書いていきます!