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舞台「天保十二年のシェイクスピア」感想 〜私は闇鍋ババアになりたい

◆noteをやっていた頃に書いた記事を転記しているので構成がめちゃくちゃです。

 

はじめに

もし高橋一生が歌って踊るミュージカルするなら見にいってあげたい(笑)とどこから目線やねんみたいなつぶやきをしたのが奇しくも2019年2月25日のこと、そこから約1年後の2020年2月27日、日生劇場で無事観劇することができました。尚、舞台を観劇するのは初めてのことで、さらにいうと自由に休みを取れるような身分じゃない状況下だったので、なんというか本当に巡り合わせだなぁと思いました。素敵な機会をくださったつぶ餡さんありがとうございます!

 

・生きるべきか、死ぬべきかという二項対立
シェイクスピアには元より様々な二項対立が描かれています。単純なところで言うと、性差、貧富差、身分差、家柄等々…一番有名な二項対立を表しているテクストといえば、「To be, or not to be, that is the question / 生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」という一文でしょうか。二項対立は、それ自体がわかりやすく、論え始めると「ソウダネ!」みたいなドツボにはまる解釈しかできないことが多いのですが、敢えて「天保十二年のシェイクスピア」ではこの二項対立、もっというなれば「生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ」というテクストが核になっているように感じました。単純な対立構造でいうと、蝮一家と花平一家、お文とお里なんかは綺麗な二項対立ですし、(これはキャピュレットとモンタギューを下地にしてることは明らかなのですが)三世次が登場するシーンの歌も様々な二項対立、きれいはきたない…等々歌い上げていますよね。でもこの舞台の主人公(と、言い切ってしまっていいのだろうか?)の三世次でさえ二項対立には王次がいて、お互いが互換性が高い存在として描かれていたので、三世次の役割ってなんなんだろうな、と思っていたんです。特に序盤〜幕間までの三世次は、アリスでいうとチェシャ猫のような、夏の夜の夢でいうとパックのようなトリックスター的な存在だったので、このまま終焉を迎えるのかな〜と思っていた。ら、そんなことなく、ここから三世次の物語に形を変えていく様が凄かったです。

 

・三世次が持ち得なかった「種」

三世次がどんな人物かというと、

無宿の渡世人。顔に大きな火傷があり片足が不自由、おまけに瘻という凄い人物だが邪知姦計に長けており、下総を牛耳る二組のヤクザの抗争を利用して出世しようと企む。
様々なシェイクスピア作品のシークエンスを一人で引き受ける忙しい人物。
(Wikipediaよりお借りしました)


というキャラクターなんですね。(ごめん、忙しい人物という一文にちょっと笑った)
足が不自由=身体機能の欠乏、特に性的に不能というメタファーが織り込まれることが多いので、おそらく三世次もそうなのではないかと推測されます。冒頭に遊女と性交するシーンでも「イっては」ないんですよね多分。あとお光に夜這いをかけるシーンでは最終的には屍姦だったし。わたしは、子孫を残す種を持たざる人物と読みました。剣が下手(剣は男性性のメタファー)でことば使いと自分の身分を言い切っているところもその一環かと…。そんな三世次が、「二つで一つの女」=二項対立を為し得ない唯一の人物、お幸/お光が引き金となり最終的に死に至る。最後の台詞では「馬をよこせ、できれば羽の生えた馬だ」と言っていましたが、馬=身体機能を為さないと乗りこなせない、また男性性や種のメタファーとして描かれるものなので、彼が欲していたものはそこにあったのかなぁと…。(そういえばお里とお文も馬を乗り換えるのさ!と言っていましたね。) 鏡に映された自分、二項対立ではなく二つで一つであることを見つめた先にあったのは死。最終的には対立要素だと思っていた百姓=種蒔く人、自分の元来持つべきだった本質に殺される最後、壮絶でした。

 

・ザ ・ニッポンのシェイクスピア

演出の感想で言うと、日本古来の(?)文学を感じられるところがちょこちょこあってオォ〜と思いました。羅生門、桜の木の満開の下、曽根崎心中(というか人形浄瑠璃ですね)など、詳しい人が見たらもっと色々あると思うのですが、シェイクスピアの作品を全部詰め込んだとはいえ、私たちの文化的下地にはどうしても日本文学があるんだなぁと思いました。音楽はブルース、ボサノバ、ソウルと幅広く、(もちろん他にもたくさんあります!)文化の融合という陳腐なことばでしか褒めることができません。ちなみに最後のシーンはスリラーですよね。笑

 

さいごに
・カーテンコールが終わった後、高橋一生さんから(ここではちゃんと敬称をつけますね)説明があり、なんとこの日の公演が実質の千秋楽、予定されていた今後の公演は中止とのことでした。わたしは本当にたまたま、巡り合わせで観劇させてもらった身なのですが、千秋楽を楽しみにしていた人、大阪公演までネタバレなしに…と心待ちにしていた人、本当にたくさんいたと思います。カーテンコールの後の、無念、という気持ちはもちろんそうなのですが、それ以上に印象に残ったのは高橋一生さんの、娯楽に対する考え方でした。 

 

 

今、未曾有の(という表現が適切かはわかりません)感染症予防のために、いろんなことが制限される中、娯楽というものは真っ先に控えるようにという風潮があって、でもわたしたちはきっと、心を豊かにせずに生きる方法なんて忘れてしまっているんですよね。日常生活はもちろんですが、それ以上に今、自分の手の届く範疇にある「心を豊かにしてくれること」をもっと大切にしないといけないな、と思いました。それに気づかせてくれた三世次の亡霊(さすがことばつかいだ…)はじめ、すべての演者さん、スタッフさん、ありがとうございました。

 

…というめちゃくそ真面目な終わりになっちゃったのですが、わたしは早く闇鍋ババアになって壺にカラスを投げ入れる役をやりたいです。